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『イエスさまの心を蒔く』


マタイによる福音書13:1-9、18-23)

(2020年7月12日)

山口卓也

皆さん、こんにちは。

今日もご覧いただき、ありがとうございます。

大雨による被害。本当に深刻ですね。

地球温暖化の影響と言われていますが、以前とは違う環境へと変化しているようです。


 イエスさまの公のご生涯も、最初の頃とは違って来た。

今回のみ言葉は、そんな時に語られたものです。



13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。

 13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。

 13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

 13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。

 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

 13:9 耳のある者は聞きなさい。」


13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

 13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

 13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、

 13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

 13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


(マタイによる福音書13章1~9、18~23節)


ガリラヤ湖という湖のほとり。

そこに座っておられたイエスさまの元に、大群衆が押し寄せました。


イエスさまは、弟子に命じたのでしょう。舟で湖に漕ぎ出されました。


これなら、自然に衆との距離を保つことができます。

安全な上、音響効果も抜群でした。


けれども、イエスさまが語られたのは、「種を蒔く人」のたとえ話です。

教える場所を選ぶのなら、湖の上よりも、山の上など、

土のあるところの方が、視覚教材として、適切ではないでしょうか?


もちろん、イエスさまの舞台設定に誤りはありません。

実は、このたとえ話は、理解してもらうためのものではなかったのです。


たとえで使われたのは、日常よく見る光景でした。

群衆にも、しっかりと理解できます。

でも、それがいったい何を意味しているのか?


その解説がないまま

「はい、お終い。解散」となってしまったのです。


こんなことは今までに経験したことがありません。


イエスさまはいつだって、わかりやすく、ご自分が救い主、メシアであることを示してくださっていたのです。


「今日のイエスさまのお話、いったい何が言いたかったんだろう?ちっともわからなかったね」


群衆は、こんな会話を交わしながら、帰って行ったことでしょう。

状況が、すっかり変化したこと。

もう、以前の恵みが戻っては来ないことに、彼らは気づいていませんでした。


このたとえが語られる前。

イスラエルの宗教的指導者たちは、「イエスはメシアではない」。

そう公式に否定する発表を行っています。


そして、地上を歩まれるイエスさまをその目で見ながら、

民の多くが、指導者たちに同調してしまいました。


イエスさまはすでに、あふれるほどの恵みを注がれたのです。

それでもイエスさまを拒否するなら、もうこれでストップ。

次のステージへと、すっかりシフトしたのです。


だから、「種を蒔く人」のたとえが、いったい何を教えているのか?

その解説を聞くことが許されたのは、弟子たちだけでした。


やがて弟子たちによって、全世界への宣教が行われる。

そんな時代に備えた訓練がスタートしていました。


その時、彼らが語る神さまのみ言葉。

これが種にたとえられています。


このメッセージをご覧の皆さん。

今、皆さんの心という土地に、神さまのみ言葉の種が蒔かれています。


紀元1世紀のイスラエルの民が、聞くことを許されなかったイエスさまの解説。

旧約聖書の時代の信仰者たちが、聞きたくても聞けなかったイエスさまのみ言葉。


今は全部、聖書を通して聞くことができます。

イエスさまの心が、すべて皆さんの前に、オープンにされています。

この素晴らしい祝福を、しっかりと受け止めてください。


み言葉は、ひとつ理解できるごとに、心が喜びで満たされます。そして、次の豊かな祝福への扉を新しく開いてくれます。


どうか、あなたの心の耳が開かれ、イエスさまの心を知ることができますようにと、私も祈っています。


また、イエスさまを信じる皆さん。


イエスさまが語られた、たとえ話は、あなたを励まし、背負う必要のない重荷から解放するものでもあります。


イエスさまのたとえで、種が蒔かれた土地は、4種類ありました。

人の反応も、同じです。

み言葉は、信じて受け取った人に、イエスさまによる罪の赦し。そして、永遠の命を与えることができる力に満ちています。


神さまからの最高の贈り物。これが、あなたが抱えた種の袋に、詰め込まれているのです。

ですが、それを伝えた時の反応はどうでしょうか?


「イエスさまの話を家族にしたけれど、

まったく相手にされなかった」。


「喜んで信仰を持ったはずの友人が、

様々な事情が起こったために、去っていった」。


このような経験は、辛いものですね。

種の袋をしまい込んで、黙っていたくなるかもしれません。


でも、イエスさまは、あなたにこのようにおっしゃるのではないでしょうか?


「がっかりして、種蒔きをあきらめてはいけないよ。

あなたが、勇気を失わないために、私が前もって、現実を教えておいたんだよ」


もし、良い土地だけを選んで、種を蒔くことができれば

効率が良いでしょう。

ですが、土地は選べても、人の心を見ることはできません。


それができるお方。

神さまは、土地を選ぶことなく、種が蒔かれることを望んでおられます。

つまり、生まれて来るすべての人。

その全員が、永遠の命への道に招かれているのです。


その招きに、どうお答えするのか?

それは種を蒔かれた人、自らの心が決めることです。


自分には、どうすることもできない。

あなたの責任の範囲を超えた部分に関して、悩み、苦しんではいませんか?


イエスさまが決められた範囲をしっかりと把握する。

その上で、イエスさまが決められた期間。

精一杯、種を蒔き続ければ、それで良いのです。

何よりも、私たち自身の心が、“良い土地”とされて、

み言葉を受け取ることができるよう神さまに祈り求めてまいりましょう。


み言葉は、私たちの魂を養い、しっかりと根を張って生きる人生へと導いてくれます。

そして、み言葉を通して、種蒔きに出かけるための力を、日々受け取ろうではありませんか。


み言葉に耳を傾けてくださる皆さん。

そして、種蒔きに出かけようとする皆さんを、神さまが豊かに祝福してくださいますように。


イエスさまのみ名によって祝福します。


ではまた、次週のショートメッセージでお会いしましょう。


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『わたしのもとに来なさい』-イエスの避難勧告-


マタイによる福音書11:25-30)

(2020年7月5日)

山口卓也

皆さん、こんにちは。

今日もお聴きくださり、ありがとうございます。


やっと日常が取り戻せる。そう思ったのも束の間。

経験したことのない苦難が、次々とやって来ていますね。


災害から逃れよう。そう思って避難所に行きますと、今度は、コロナウィルスの感染を心配しなければなりません。


平和と安全が、失われつつあるように感じられる。

そのような世の中です。


けれども、神さまは私たちを見捨ててはおられません。


 私たちにとって、なんとしても逃げ込むべき避難所。それは建物ではありません。

イエスさまという、真の神なのです。

このお方からの招き。それは、すべての人に向けられた避難勧告でもあります。


では今回のみ言葉を聞きましょう。


11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章25-30節)


イエスさまは、この箇所の直前で厳しいお叱りの言葉。

そして裁きの言葉をお語りになっています。


その叱責が向けられたのは、イエスさまが活動の拠点となさった町々。

コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという3つの町でした。


この町でイエスさまは、ご自分が救い主、メシアであることを証明する大いなる奇蹟を行ってくださいました。


町の住人たちは、イエスさまに直接、お目にかかることができました。

イエスさまに手を触れていただいて、病気を癒してもらった。


そんな幸せな人も、たくさんいたに違いありません。

それなのに、悔い改めてイエスさまを信じようとはしませんでした。

祝福を無駄にして、裁きの宣告を受けた3つの町。

現在、ひとつも存続していません。


では、その町々の住人は、なぜイエスさまを信じることができなかったのでしょうか?


その答えが、今回の聖書箇所にあります。

イエスさまは、父なる神さまに向かって、こうお語りになっています。


≪これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。≫


これでは、まるで賢いと損をする。そう思えますね。


しかし、イエスさまがおっしゃったのは、「自分には知恵がある、賢いんだ」。

そう思い上がっている、本当は愚かな人のことです。


皆さんのおうちにある、小さなメジャー。

それで宇宙を測ることって、可能でしょうか。


3つの町の人々は、イエスさまの価値をそのようにして測ろうとしたのです。


イエスさまをの言動を、当時のリーダーたちの教え。また自分の知識や経験といったフィルター。

それらを通してしか、判断しませんでした。


だから傲慢にも、神であるイエスさまを見下してしまったのです。


反対に、イエスさまをメシアとして信じた者。

イエスさまは彼らを“幼子のような者”と呼ばれました。

当時、小さな子どもたちは価値がない者とされていました。


でも、それは間違いです。

人間の価値は、赤ちゃんも、ご高齢の方も、まったく変わりません。


実際、子どもたちは決して愚かではありません。

大人がびっくりするくらい、いろんなことを真剣に考えています。


確かに、知識や経験は乏しいですね。

それを一番、幼子自身がわかっています。

だから周りの大人を信頼して、率直な質問を投げかけながら成長していきます。


イエスさまと向き合う時も、同じ姿勢が求められます。

子どものように澄んだ目で、まっすぐにイエスさまを見上げてください。


人は、自分の知恵や知性で、神さまを知ることができる。探り当てることができる。

そう思っているかもしれません。

ですが、それは不可能です。


イエスさまが示してくださらなければ、誰も神さまを知ることはできないのです。


今、私たちは、イエスさまのみ言葉を聞いています。

それは、イエスさまがあなたを愛し、ご自分が神であることを示してくださっているからです。


≪疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに

来なさい。休ませてあげよう。≫

この招きは、すべての人に差し出されています。

今、イエスさまをあなたの救い主として、信頼しようではありませんか。


次にイエスさまは、

≪わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。≫と約束してくださいました。


“軛”というのは、2頭の家畜を木の横棒で固定するための道具です。

それを付けますと、2頭の家畜は、まるで1頭であるかのように同じ方向を目指して進みます。

しかも、出せる力は2頭分。

畑を耕したり、車を引いたりと大活躍します。


ですが“軛を負う”って、安らぎというよりも、むしろ、自由を束縛されてしまう気がします。


ではイエスさまは、

「わたしのために、歯を食いしばって、働け!」

と命じておられるのでしょうか。


もちろん、そうではありません。


「わたしのくびきを負いなさい」。

この言葉は、当時の教師、ラビと呼ばれる人の使う用語で、

「私の学校に入学しなさい」という意味だそうです。


イエスさまから学ぶこと。

これが信仰者に求められています。

イエスさまは、あなたが日々成長するようにと、

ちょうどぴったり合った負荷のトレーニングを用意してくださる最高のコーチでもあります。


「じゃあ、私もイエスさまの教えを聞いて従おう。」

そう決意なさった皆さん。

あなたが今、くびきの一方。左側に繋がれた牛だとしましょう。


では、右を見てください。

もう一方のくびきに繋がれているのは、いったい、どなたでしょうか?


そうです。

イエスさまなんです。


イエスさまを信じた時。あなたは、イエスさまと永遠にひとつとされました。


もう今までのように、自分の思う通りの方向に、勝手に進むことはできません。


でも、その道は天の御国へとつながっています。

そして、隣におられるイエスさまが、毎日あなたを教え、励まし、また慰めてくださいます。


大いなる神であるイエスさま。

そのお方が、あなたと同じくびきにつながれるために、

どれほど大きな犠牲を払われたことでしょうか?


≪わたしは柔和で謙遜な者だから≫

これは、本当に、真実な言葉です。


神としての栄光を捨てて、人となられ、低く、低く、かがみこんで、私たちを愛されたお方。

そして、今も謙遜に、私たちと共に歩んでくださるお方。

それがイエスさまなんです。


このお方を信じる。

これだけが、永遠の避難所への道です。


どうぞ、イエスさまからの避難勧告を受け入れて、永遠の命を受け取ってください。


イエスさまがくださる平安が、今週も皆さんと共にありますように。


イエスさまのみ名によって祝福します。


ではまた、次週のショートメッセージでお会いしましょう。



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『神が報いてくださる 』


マタイによる福音書10:40-42)

(2020年6月28日)

山口卓也

皆さん こんにちは。

今日もお聴きくださり、ありがとうございます。


梅雨も後半に入って、大雨の心配が出てきました。

急な雨で、服や荷物が濡れてしまった。

そんな時「ヘアドライヤーで乾かそう」と考えたことはないでしょうか?


それは、とても危険です。

火傷を負う。火事になる。こんな例が、珍しくありません。


濡れた服に、吹き出し口を押し当てた。

袖口に、ドライヤーの先を入れて、温風を送った。

こうした本来の目的とは違うことに使ってしまう。

危険と知らずに、想定外の使い方をされてしまう現実。


これを知ったメーカーの方が、「説明書を読んでください」と言っていました。


では、あなたの大切な人生。説明書通りに、正しく歩んでいらっしゃいますか?

「人生に説明書なんて、あるんですか?」とお尋ねでしょうか。


もちろん、あるんです。

あなたをお造りになったお方。

神さまが、聖書を通して私たちに教えておられます。


ですが、多くの方がこの事実を知りません。

どこに向かうのか?それを知らないままに、自分が正しいと思うやり方で、生きておられます。


「彼らは、滅びに向かって突き進んでいる。危なくて、とても見ていられない。」

神さまの目には、そう映っています。


そこで、滅びから救われる道であるお方。

救い主メシアを、私たちの元に送ってくださったのです。


イエスさまが、地上を歩まれた時間は、わずか3年半。

その間に、ひとりでも多くの人に宣教するためには、ご自分の代理人となる働き手たちが、必要でした。

これが12使徒の派遣です。


出発にあたり、彼らに与えた命令や警告の数々。

その締めくくりが、今回の聖書の言葉です。


10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
(マタイ10:40-42)


「あなたがた」とは、もちろん12使徒のことです。

宣教旅行に出かけた先々では、人々から拒否され、迫害される。だから覚悟を決めなさいとの厳しい警告が、与えられていました。


けれども、彼らの話を聞き入れて、イエスさまを信じた人々。滅びから救われて、神さまの元に帰る人々も、ちゃんと起こされたのです。


イエスさまは、ご自分が直接訪問なさった場合と同じ権威と力を12使徒に与えました。


ですから、12使徒を受け入れた人。

その人は、イエスさまご自身を受け入れたことになります。

また、イエスさまをお遣わしになったのは父なる神さまですから、その人は、父なる神さまをも受け入れたことになるのです。

このささやかなメッセージを通して、「イエスさまを信じよう」。

そう決心なさる方が、もしいらっしゃるなら、

あなたは、直接イエスさまからの招きをいただいたのと同じです。


イエスさまを信じ、受け入れたなら、ただちに、罪の赦しと永遠の命が、あなたのものとなっています。


さらにイエスさまの嬉しい約束が続きます。


12使徒は、年も若く、社会的地位も低い、言ってみれば、特別な尊敬を払う必要のない小さな存在でした。


しかし彼らを遣わしたお方は、人間が最高の敬意を払うべきお方。

心からの礼拝と賛美を捧げるべき神なのです。


イエスさまの弟子なのだから、という理由で、彼らをもてなしてくれるなら、必ず報いがある。

そうイエスさまは言われました。


これは、今も生きる約束です。


私自身も、イエスさまの弟子として歩みたい。

イエスさまの福音を、なんとかしてお伝えしたい。

そう願って働いています。

そして、さまざまな方に支えられています。


このYouTubeを始めるにあたっても、わからないことだらけで不安でした。


「誰が、聴いてくれるの?」という言葉も受けました。

でも、とにかくやってみよう。そう、歩み出した時。

神さまの守りと祝福をいただきました。


感想を寄せて、励ましてくださる皆さん。

私にとって、それは魂を潤す、冷たい水です。

「いったい何杯の水を、いただいてきたのだろうか」と、感謝の思いでいっぱいです。


皆さんに、何もお礼はできていません。

ですが、神さまが必ず報いてくださるとの約束に平安をいただいています。


私自身も、いくつかの宣教団体、伝道者の方のサポートをさせていただいています。


支えたり、支えられたり、励ましたり、慰めを受けたり。

こんな風にお互いに仕え合う関係って、それだけで人生を豊かにしてくれる、神さまからの贈り物ではないでしょうか。


その上さらに、報いまで用意してくださる。

しかも、実際に、宣教の現場に立つ人と、サポートする人。「どちらも報いは同じだ」と神さまは言われるのです。


これを実践した人の話が、旧約聖書に登場します。

ダビデという王様です。


まだ王様になる前。

苦しい日々を過ごしていた頃。

部下の兵士たちを引き連れて、外出している間に、ダビデの住む町を略奪者が襲いました。


帰ってみると、町は焼かれ、ダビデの奥さんと子どもたち。そして、部下の奥さんと子どもたち。全員が連れ去られていたのです。

嘆きと苦しみの中から、ダビデは神さまによって立ち上がりました。


そして600人の兵士と共に、略奪対を追跡します。

結果として、何もかも取り戻した上に、家畜の群れまで、戦利品として手に入れることができたんです。


でも猛烈な追跡部隊のスピード。

これに、体力的についていけなかった。

そこで、荷物のそばにとどまっていた。

そんな兵士たちが、200人いたのです。


「一緒に来なかった者には、戦利品の分け前はやれない」

そう言い放つ、意地悪な兵士たちもいました。


けれども、その意見をダビデは退けました。


「そんなことをしてはだめだ。

自分たちを守って、戦利品を与えてくださったのは、

神さまなんだから。

神さまの恵みは、みんなで分かち合おう。

とどまった兵士も、戦った兵士たちも、取り分は同じだ」


最前線に立てなかった兵士たちは、きっと自分を責めていたはずです。

「君たちは、落伍者なんかじゃない。

荷物の番も、立派な務めだ。恥じることは何もない。」


リーダーであるダビデの、思いやりに満ちた判断。

これは、どれほど彼らを慰めたことでしょうか。


イエスさまは、もちろんダビデ以上のお方です。

まことの神であって、その判断には誤りがありません。

驚くほどの恵みが、あなたのために用意されています。


どうぞ、このお方が差し出す救いの御手を受け取ってください。

イエスさまを受け入れるまでは、あなたの魂は、敵に略奪されたのと同じ状態に置かれているのです。


そして、宣教師、牧師、また、ひとりのクリスチャンとしてイエスさまを伝えたいと願う皆さん。

この働きは、人の魂を神の元に取り戻す。

そのための追跡部隊なのです。


部隊には、さまざまな役割があります。

そして同じ報いが、ちゃんとあります。

恵み深い神さまの約束に信頼し、それぞれの働きの場へと遣わされてまいりましょう。

今週も、皆さんの上に神さまの愛が豊かに注がれますように。


イエスさまのみ名によって祝福します。


ではまた、次週のショートメッセージでお会いしましょう。


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『イエスを恥としない 』


マタイによる福音書10:24-39)

(2020年6月21日)

山口卓也

皆さん、こんにちは。

今日もご覧いただき、ありがとうございます。


移動の自粛要請が解除されましたね。

今までためらっていた旅行にお出かけになる方が、いらっしゃるかもしれません。


今回の聖書は、イエスさまが12使徒たちにお与えになった“旅のしおり”です。


イエスさまは、12人の弟子をご自分の代理人として、各地に派遣しようとなさいました。


この宣教の旅。私たちが楽しむ観光旅行とは違います。

当時は、旅行そのものが、危険でした。その上、12使徒の訪問を歓迎しない。かえって、迫害しようとする者たちが、待ち構えていたのです。


そこへ、あえて派遣するのですから、当然、厳しい警告の言葉が連発します。




【 新共同訳 マタイによる福音書 10:24-39 】

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。

 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

  二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

  「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

  しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

 こうして、自分の家族の者が敵となる。

 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


いかがでしょうか?

日ごろ聖書に親しんでいる方でも、戸惑を覚えるのではないでしょうか。

特に34節。

《「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」》


なんだか、イエスさまのお言葉とも思えないとびっくりしますね。

イエスさまのイメージは平和とか、愛ではないでしょうか。


私が、子どもたちに聖書の話をする時。

「イエスさまは、優しい神さまですよ。みなさんのことが、大好きなんですよ」


そう教えていますし、事実その通りです。


イエスさまが、厳しい言葉を使われた理由。

それも、イエスさまが優しくて、愛の配慮に満ちたお方だからなんです。


この旅のしおりは、直接的には12使徒に向けたものです。

ですから、この時だけに限定された教えも、当然あります。


でも、時代を超えて、現在も有効。そんな教えも満載です。


イエスさまは、多くの奇跡という証拠を示して、ご自分がメシアであることを教えてくださいました。

でも、結果として、当時の人々を真っ二つに分けることになりました。

イエスさまを信じる人と、拒否する人です。


特にひどい拒否。それが宗教的リーダーたちの公式発表です。


「イエスが、すごい奇蹟を行えるのは、メシアだからじゃない。悪霊の親玉の力を使っているからだ」


こう言って侮辱した上、イエスさまを葬り去ろうと企みました。

12使徒たちは、そのイエスさまの代理人なのです。

同じ苦しみの道が待っているのは、当たり前。

イエスさまは、それを覚悟するようにと警告しました。


人間は、不意に起こる災害、思いもかけない攻撃にとても弱いですね。

だからイエスさまは、正しい情報を与えて、備えをさせてくださったのです。


さらにイエスさまは、「恐れるな」と何度も言われました。なぜなら、守りがちゃんと保証されているからです。


人間に比べたら、無価値に等しい。そんな雀の一匹さえ、神さまは、その一生を心に留めてくださいます。

私は、自分の髪の毛の本数を知りませんが、神さまはご存じです。


その全知全能の神が味方なのだから、人を恐れる必要はない。そうイエスさまは言われるのです。


あなたは、いかがでしょうか?


「イエスさまを信じました。洗礼を受けます。」

そう言った時、家族に反対されたかもしれません。友人に馬鹿にされたかもしれません。


とても辛いご経験でしたね。


では、どうするか?

人によっては、祈りつつタイミングを待つという道もあるかと思います。


でも、あなたが一番愛するもの。

畏れ、敬うべきなのは、どんな場合も変わることがありません。


それは家族でも、友人でもありません。

あなたの魂とからだをお造りになったお方。神、ただおひとりです。


人が、あなたをどれほど攻撃しても、魂にまでは手が出せません。


ですが、神さまは≪魂も体も地獄で滅ぼすことのできる≫お方です。


イエスさまは、神として、ただちにそうする権利をお持ちでした。でも、選ばれたのは苦しみの道だったのです。


私たちを救おうと、神としての栄光を捨てて人となられました。

そして、私たちが受けるべき罪の刑罰を全部ご自分が、引き受けてくださったのです。


十字架刑とは、囚人に恥をかかせ、見せしめにする刑です。

イエスさまも、これ以上ないほどの侮辱を耐えてくださいました。


そして、その先に待っていたのは、栄光の復活です。

イエスさまを信じる信仰者にも、同じ復活の命。

永遠の命が与えられています。


仮に、イエスさまのためにすべてを犠牲にしたとしても、実際には、失うものなど、なにひとつない。


それどころか、この世の宝を全部差し出しても、絶対に手に入らない。永遠の命という宝。

神さまの子どもという身分。


イエスさまを信じる人は、すでに持っています。

これほどの愛と恵みを知ったなら、どうして、イエスさまを恥じることなどできるでしょうか。


 「でも、やはり人の反応が気になってしまう」

あるいは、

「クリスチャンであるとは、人に言えない。イエスさまから、あなたのことなど知らないと言われてしまうのじゃないか」


そう気に病んでいる方が、いらっしゃるかもしれません。


 ですが、イエスさまからの警告をしっかりとその耳で聞いたはずの12使徒。

その一人であるペトロでさえ、イエスさまを知らないと、3度も言ってしまいました。


その後、彼はどうしたでしょう。

イエスさまは、彼を赦しました。そして、大切な使命を委ねてくださいました。


赦された喜び、変わらない愛への感謝。

それが、彼をもう一度立ち上がらせたのです。

恐れを捨てて、立ち上がる時が、今、あなたにも訪れているのではないでしょうか。


イエスさま以外に、救いの道はありません。


救い主、イエスさまを人に紹介すること。つまり宣教とは、滅びに向かう魂を神さまの元に連れ戻す働きです。


この他に比べようもない尊い働き。価値ある務めをイエスさまは、私たち人間に委ねてくださいました。


このお方の愛と恵みと力とが、皆さんの上に、豊かに注がれますように。


イエスさまのみ名によって祝福します。


ではまた、次週のショートメッセージでお会いしましょう。




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『収穫に出かけよう!』


マタイによる福音書9:35-10:8)

(2020年6月14日)

山口卓也

皆さん、こんにちは。

今日もご覧いただき、ありがとうございます。

お元気にお過ごしでしょうか。


ついに、梅雨の季節がやって来ました。

空気が湿っていて、重たく感じられます。

そこで、小型のサーキュレーターを使ってみました。


温度や湿度は変わらないのに、空気の流れがある。

それだけで、かなりさっぱりとした気分になります。


皆さんの心の中にも、神さまのみ言葉という恵みの風が、いつも吹き抜けますように。


では、今日のみ言葉です。



【 新共同訳 マタイによる福音書 9:35-10:8 】

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」


イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


イエスさまは、主な活動の舞台。ガリラヤ地方におられました。

そして、ご自分を救い主、メシアとして信じるようにと人々を教えたのです。


では、イエスさまの教えが真実だと、なぜわかるんでしょうか?

何か保証してくれるものがあったのでしょうか?


それが、≪ありとあらゆる病気や患いをいやされた。≫という奇蹟の御業でした。


イエスさまは公のご生涯の中で、たくさんの奇蹟を行われました。

ですがそれは、シャボン玉が、ぶわーっと飛ぶように、意味もなく連発されたものではないんです。


イエスさま=メシア。

そのように当時の人々が、はっきりとわかり、信じて救われる。

そのために行われたものでした。


じゃあ、人々は全員イエスさまを救い主として信じたのでしょうか。


残念ながら、態度を決めかねていたんです。

なぜかと言いますと、当時の指導者たちが「イエスは、メシアではない。」と否定していたからです。

もちろん、この判断は間違っています。


指導者たちは、イエスさまへの妬みから取返しのつかない判断を下してしまったのです。


「人の意見を鵜呑みにするのではなく、しっかりと自分で考えて判断する。」


この大切さを今の私たちは、よく教えられていると思います。


でも、当時の群衆はそうではありません。

「イエスさまの教えや奇蹟は、素晴らしい!だけど偉い先生たちが、イエスなど救い主ではない。ついて行ったらだめだと言っている。

いったい、どっちを信じたらいいんだろう?」


こんな風に、迷いに迷う群衆。彼らの姿がイエスさまの目には、

≪飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている≫と映りました。


「わたしこそ本物のメシアなのに、信用しないなんて、

とんでもない者たちだ。もう放っておこう」


こんな風には、イエスさまは思われないのです。

なぜなら、イエスさまを信じる以外には、救いの道はないからです。


このままでは、群衆は迷子の羊と同じ運命を辿ってしまいます。

つまり崖から落ちてしまうか、野獣の餌食になってしまう。


そんな状況を見ていても平気。

もしイエスさまが、そんなお方であるなら、人となって、この世界に来てくださったでしょうか。

この時も、何とかしてご自分の元に招こうと、さらなる兵力増強を図ってくださいました。


それが、12人の使徒たちの派遣でした。

イエスさまは、数多くの弟子たちの中から、特別に12人を選ばれました。


彼らは、元漁師だったり、元徴税人だったり。

決してエリート集団ではなく、ごく普通の青年たちです。でも、問題ありません。


イエスさまが、ご自分の権能をお授けになったうえで派遣してくださったからです。


皆さんが、ご家族や友人などから、委任状を託された。

そして、役所や銀行に行った場合。


本人ではないけれども、代理人として、頼まれた用事が足りること。結構あると思います。


12使徒たちも、イエスさまの代理人です。

彼らの語ることが、きちんとイエスさまから権威を授かったものであること。

それを保証したのが、汚れた霊の追い出し。

あらゆる病気の癒しという奇蹟でした。


だから、イエスさまの代理人として派遣されたこと。

これは12使徒たちにとって、大変エキサイティングな働きだったと思います。


しかし、心にひっかかる点。

それが、「異邦人の道に行ってはならない。」とイエスさまが言われたことではないでしょうか?


異邦人とは、イスラエル民族以外の民族すべてのことです。

では、異邦人など滅びてしまっても構わない。イエスさまは、そうおっしゃるのでしょうか?


これは、最近、解除された“緊急事態宣言”などと似ています。

期間を限った命令なんです。


だいたい、12人だけ、しかも限られた時間ではイスラエルの地を巡るだけでも、精一杯です。

まずイスラエル民族から始めて、全世界へ。

これが、神さまが立てられた秩序正しい、完全なご計画でした。


こうしてイエスさまのお働きが、一挙に何倍にも広がっていきました。


全世界を対象とした宣教が行われる時代は、イエスさまのご復活の後にスタートしました。

「異邦人の道に行ってはならない。」という命令は、完全に解除されています。


ご家族、ご友人、そして、すべての人のために、日々涙と共に祈っておられる皆さん。

どうか、あなたも、イエスさまの代理人となって立ち上がってください。


たわわに実った、さくらんぼ。

もし、収穫する人がいなかったら、地面に落ちて

くさってしまいます。


まして、イエスさまが、私たちに託されたのは、人間という、かけがえのない存在なのです。


あなたが収穫のための働き手とならなければ、

イエスさまの招きの言葉を聞くことができない。

そのような方が、おられるのではないでしょうか。


でも「イエスさまを信じる人は、ほんのわずかだ」

そう、あきらめてはいませんか?


「収穫は多い」とイエスさまは断言なさっています。

人は、他人の心の中にまで、風を送り込むことはできません。

ですが神さまのみ言葉は、心の奥深く、魂の奥底まで届いて、人生を変える大旋風を巻き起こす力があります。


いつ収穫の時を迎えるか?

主導権は神さまにあります。信頼し続けましょう。


喜びの歌を歌う日が一日も早く訪れますよう、私も祈っています。


羊のように、心迷っておられる皆さん。

あなたは今、知らずに崖っぷちに立っているのではないでしょうか?


あなたをしっかりと腕に抱えて、安全な場所へ、天の父なる神さまの元へと連れ戻す。

それができるのは、イエスさまという神だけなのです。


イエスさまは、そのために天の御座から降りて、あなたの代わりに十字架で命を捨ててくださいました。

神さまのご計画には、時があります。


突然、世界が変化したように、世界宣教が行われる時代も終わる時がやって来ます。


今という時。どうか、あなたの救い主として、イエスさまを受け入れてください。


今週も、父なる神さまの愛と恵みが、皆さんの上に、豊かに注がれますように。

イエスさまのみ名によって、祝福します。


ではまた、次週のショートメッセージでお会いしましょう。



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