川崎元木ルーテル教会のブログ

◎ 4月28日(日)10:30~11:30 
  復活後第1主日
  メッセージ「心燃える」
  メッセンジャー:山口卓也(川崎教会)

【聖書】詩16:1-11(旧845)、使5:12-32(新221)
    黙1:4-18(新452)、ルカ24:13-35(新160)

【讃美歌】147"よろこびたたえよ" 、154"地よ、声高く"
     90"ここも神の"、  541“父、み子、みたまの”
 

礼拝への参加が初めての方も、歓迎です。ぜひご参加ください。
※聖書、讃美歌は教会に備え付けのものがあります。



◎ 4月21日(日)10:30~11:30 
  復活祭 (白)
  メッセージ「イエスの復活」
  メッセンジャー:山口卓也(川崎教会)
【聖書】詩118:14-24(旧957) 出15:1-11(旧117)     1コリ15:21-28(新321)ルカ24:1-12(新159)  
【讃美歌】147"よろこびたたえよ" 、154"地よ、声高く"
     90"ここも神の"、  541“父、み子、みたまの”
 


礼拝への参加が初めての方も、歓迎です。ぜひご参加ください。
※聖書、讃美歌は教会に備え付けのものがあります。



2019年4月14日
『イエスの逮捕』《ヨハ18:1‐11》

キリスト教では、週の初め。1週間の始まりは、日曜日です。

イエス・キリストが、十字架の死から復活なさったのは、日曜日でした。

その復活の日曜日。イースターが、いよいよ来週です。
その直前。

今週は、受難週と呼ばれる、特別な週です。

イエスさまがお受けになった苦しみを心に覚えつつ過ごしたいと思います。

そこで今朝の聖書は、ヨハネ福音書から、
イエスさまが逮捕される場面を見てまいりましょう。

イエスさまが、歩まれた、最後の1週間。

それは、日曜日の、エルサレム入城から始まりました。
そして同じ週の金曜日。
イエスさまは十字架につきます。

ユダヤ教の巡礼祭のひとつである、過越祭の日。
その日に、神の小羊として、すべての人の罪のために犠牲となる。

これが、父なる神さまがお立てになった、
私たちの罪を赦すための、ただひとつの道でした。

公のご生涯で、なすべき活動を、すべて終えられたイエスさまは、木曜日に、弟子たちと最後の晩餐を
持たれました。

今朝の聖書箇所は、その最後の晩餐が終わった後に起こった出来事です。
18章1節をご覧ください。
《 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。
そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。》(ヨハネ18:1)

ここに登場する園。
これが、有名なゲッセマネの園です。
イエスさまは、一日の働きを終えた後、
この園に来て祈ることを習慣にしておられたのです。

そして、ゲッセマネの園は、イエスさまの最後の祈りの場となりました。

そこへ向かう道すがら。
イエスさまは、弟子たちに教えを語り続けてくださいました。
直後に待っている、ご自分の苦難よりも、弟子たちのことを大切に思ってくださったからです。

《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている》
(16:33)

こう言って、弟子たちを励まし、
続いて、
《彼らを悪い者から守ってください》

父なる神さまに祈りを捧げてくださいました。

イエスさまは、その祈りを、私たちのためにも、
祈ってくださったのです。

ヨハネ福音書17:20には、
《また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。》
という、イエスさまのことばが記されています。

彼らの言葉。つまり、イエスさまの復活の後、弟子たちによって行われた伝道によって。
また、弟子たちによって記された、聖書のことばに耳を傾ける。
そのことを通して、わたしたちは、イエスさまを知り、イエスさまを信じました。

そんなすべての人々のためにも、イエスさまはあらかじめ、祈っておられんです。

しかし、そんな優しいイエスさまを待っていたのは、弟子の裏切りと逮捕でした。
2-3節をご覧ください。

 《 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。
イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちや
ファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。
松明やともし火や武器を手にしていた。》
(ヨハネ18:2-3)

イスカリオテのユダは、最後の晩餐の席を
途中で立ってしまっていました。

それは、彼の裏切り。
つまり、イエスさまを敵の手に売り渡すことを決意したこと。
そして、逮捕するチャンスをうかがっていたこと。

それが、イエスさまに全部知られていると悟ったからでした。

《「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」》
そう、イエスさまに言われたユダは、慌てて席を立って、行動を開始します。

イエスさまは、民衆から圧倒的な人気がありました。
ですから、目立つ時に逮捕すれば、民衆が怒って暴動を起こる可能性があります。

だから、過越祭が終わってから逮捕する。
これが、ユダと祭司長やファリサイ派の人々の最初の計画です。

でも、イエスさまにばれていたことを知って、計画は変更されました。
逃げられないうちに、早く逮捕してしまおうというわけです。

 ユダと一緒にやって来た《一隊の兵士》。
これは、ローマ総督ポンテオ・ピラトが派遣した兵士です。
その数、およそ600名。

これほどの兵士をピラトが派遣したのは、
ユダが、「イエスは、危険人物だ」。
そう、嘘の証言をしたからだと考えられます。

しかも、松明やともし火や武器まで手にしてやって来ました。

過越祭の夜は、満月です。
松明など必要ないほど、明るかったのです。
「どこへ隠れようとも、必ず逮捕してやる」
こんな意気込みからでしょうか。

でもイエスさまは、逃げも隠れもいたしません。
むしろ、ご自身から進み出られました。
18章4節をご覧ください。

《 イエスは御自分の身に起こることを
何もかも知っておられ、進み出て、
「だれを捜しているのか」と言われた。》

イエスさまは、この時が、十字架につくべき時だと知っておられたのです。
イエスさまを逮捕しようとした者たちは、
答えます。
「探しているのは、ナザレのイエスだ」

するとイエスさまは言われました。
「わたしである」
これは、単に、「ナザレのイエスは、このわたしだ」と言われたのではありません。

イエスさまが、神ご自身であるという宣言なのです。

旧約聖書の出エジプト記の中で、モーセが
「あなたのお名前は、なんですか?」と
神さまに尋ねています。

神さまはモーセに、答えられました。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)

「わたしはある」という日本語は、ちょっと変かもしれません。
英語ですと、「わたしである」と「わたしはある。」
どちらも、アイアム。
同じ言葉が使われています。

イエスさまは、ご自分が、天地を造られた創造者なる神であることをはっきりと示されました。

そして、この宣言を聞いた者たち。
イスカリオテのユダを含む、イエスさまを逮捕しに
やって来た者たちは、
《後ずさりして、地に倒れました》。

つまり、彼らは、大変な人数でやって来ましたけれども、イエスさまの同意なしには、
決して逮捕など、できなかったということなのです。

イエスさまは、もう一度、「だれを捜しているのか」とお尋ねになりました。
≪ナザレのイエスだ≫と答える者たちに、
言われました。18:8です。

《すると、イエスは言われた。「『わたしである』と
言ったではないか。わたしを捜しているのなら、
この人々は去らせなさい。」》

今回の、『わたしである』という言葉。
これは、神であることの宣言ではなく、
「わたしがナザレのイエス本人だ!」という意味です。

「だから、私だけを逮捕すればいい。
一緒にいる弟子たちには、手を出すな」。

イエスさまは、そう、要求なさいました。

18:9 には、
《それは、
「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も
失いませんでした」と言われたイエスの言葉が
実現するためであった。》
とあります。

このイエスさまの預言のことばは、ゲッセマネの園に向かう途中で、父なる神さまに祈られた、
祈りの言葉の一部です。

イエスさまは、その公のご生涯の中で、常に
弟子たちを守っておられました。
そして、逮捕の直前になっても、その愛と守りは、
変わりませんでした。

でも、何か事が起こると、感情のままに行動する
弟子がいました。
それが、ペトロです。

彼は、持っていた剣で、大祭司の手下に
襲いかかります。
そして、右の耳を切り落としてしまいました。

しかし、そんなことをして、どうなると
いうんでしょう?
ペトロは漁師です。剣の扱いには、慣れていません。

しかも600人もの兵隊が取り囲んでいる。
そんな状態では、彼の働きなど、何の役にも
立ちません。

イエスさまは、彼を叱って言われました。
《「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」》
父がお与えになった杯
これは、十字架を指しています。
「不当に逮捕されて、十字架刑で死ぬ。
それは、父なる神さまがお与えになった杯なのだ。」

そう、イエスさまは言われました。
だから、逮捕させまいとしたペトロの行動は、
無意識に、父なる神さまのご計画を妨害すること
だったのです。

さて、イエスさまが飲むべきだと表現された杯。
これは、本当なら、私たちが飲むべきだったもの。
罪人が飲むべき、神さまの怒りの杯です。

しかし、神さまは、私たちが滅びることを
望みませんでした。
むしろ、罪を赦して、ご自分との親しい関係を
取り戻してあげたいと、願ってくださいました。

「神は、愛である」。
本当に、その通りです。

ですが、神さまが、罪をそのまま受け入れる。
まあ、いいか、と大目に見る。
そんなことは、あり得ません。

神さまは、罪とはまったく関係のない、
完全に聖なるお方だからです。

そして、同時に、正義そのものであるお方です。
罪を、正しく裁いてくださらない。
悪をそのまま放っておかれる。
そうであるなら、神が正義であると、
どうして言えるでしょうか?

罪人を愛する愛。
そして、聖なるお方としての正しい裁き。
このふたつの、両立できない問題を解決したもの。
それが、十字架です。

神さまは、罪を正しく、そして厳しく裁かれました。
罪の刑罰が、ついに下ったのです。
私たちの上にではなく、罪のまったくないお方。
イエスさまの上にです。
父なる神さまは、ご自分のひとり子を
身代わりにしてまでも、
私たちを滅びから救おうと決意なさいました。

そして、イエスさまは、そのご計画を忠実に実行してくださいました。

イエスさまは、弱さのゆえに、逮捕されたのでは
ありません。
避けようと思えば、逮捕を避けることなど
簡単でした。

ローマの兵隊の数など、問題にならないほどの
天の大軍を呼び寄せることもできた。
それが、神であるイエス・キリストというお方です。

十字架は、人が無理やり負わせたものでは
ありません。
イエスさまが、あなたを愛する愛によって、
自ら背負ってくださったものなんです。


そして、逮捕される前に、イエスさまがしてくださったこと。

それは、耳を切り落とされた、大祭司の手下。
マルコスの癒しです。

ヨハネ福音書には、書いてありませんが、
医者であった、ルカという人が書いた福音書。
その中に、イエスさまが、マルコスの耳に触れて
いやされたことが書かれています。

イエスさまが、マルコスをかわいそうに思われた。
それだけではありません。

大祭司の手下を傷つけたなら、ペトロは、
ただでは済まなかったはずです。
しかし、イエスさまが癒してくださったので、
ペトロは、罪を追及される恐れはなくなりました。

どこまでも、イエスさまは、ペトロたち弟子を
守ってくださいました。

イエスさまの守りがなければ、この後の弟子たちの
活躍はありませんでした。

そして、弟子たちの働きがなければ、
私たちの元に、救いの良き知らせが
運ばれることもなかったんです。

どんな時であっても、神さまのご計画は、
必ずその通りに実現していきます。

そして、どんなに絶望的な状況がやって来たとしても、
神さまのお許しなしには、何も起こりません。

神さまは、そして御子イエスさまは、今日も、
一切をその御手のうちに、支配しておいでです。

どうぞイエスさまの深い愛に信頼を置いて、
この受難週の日々を過ごしてくださいますように。

お祈りしましょう。
天のお父さま

あなたの定められた時が訪れた時。
イエスさまは、自らの意思で、逮捕され、
十字架への道を歩まれました。

イエスさまの愛によって、滅びから、いのちへと
移されたことを感謝します。

どうぞ、あなたの愛と守りのうちに、
ここに集われたひとりひとりを保ってください。

愛と力に満ちた救い主、
イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン

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